Kungo Sadanari Q&A

Q1 音楽をはじめたきっかけ

両親が音楽家、さらに打楽器奏者。自宅が音楽教室で、打楽器は特にたくさんありました。幼少の頃から母の音楽教室に強制的に習わされました。とにかく嫌で逃げ回ってました。野球やったり、レゴやったり、ラジコンやったり。近所の友達(今はPAのエンジニア)とロケット花火でガンプラ飛ばしたり。

小学生高学年から、トランペットを始めました。中学入学でブラスバンド部に入部。バンドも始めました。YMOが大好きだったので、最初はキーボード弾いたりしてました。

親が打楽器奏者なので、絶対打楽器だけはやりたくなくて反抗してただけかもしれません。

ドラム以外の楽器は、残念ながら全部長続きしませんでした。ドラムを本格的に始めたのは、高校入ってからです。ブラスバンド部にも入部してパーカッションも始めました。学校行って、昼休みは一人で練習台をパタパタ。部活でタイコ叩いて、夜はバンド。朝から晩までスティック握ってました。とにかく中学から高校卒業まで、ずっと音楽やってましたね。


Q2 日大芸術学部での音楽生活

日芸は、学園祭の雰囲気がとっても良かったんです。" デューク "っていう元はジャズ系のサークルなんですが、なんだか格好良いな音楽をワイワイ楽しそうにやってて、しかも凄く上手に聞こえたんです。当時は。パグリックエナミーとか、ジャクソンシスターズとか。絶対ここに入って " デューク " で演奏したい!と思って猛勉強しました。このサークル、入学してから知ったのですが、学園祭の時しか活動しなかったんです。自分のバンド活動には都合良かったですが。素晴らしい仲間や先輩に恵まれたのは言うまでもなく、音楽的な影響を沢山受けました。

学校外でやってバンドは、当時すでに下火になってたフュージョンインストバンド。10歳位上のお兄様方にしごかれてました。ミスコンのオーディションで演奏する仕事を新宿アルタでしたんですが、とっても幸せなお仕事でした。この時のギタリストの先輩は、WAXXというギター/ベースのエフェクター会社のオーナーでエンジニアでもあります。

話がそれました。肝心の学校は、授業には正直あまり真面目に出席しませんでした。学校には行ってたと思うんですが。何してたんでしょう。オーケストラの授業なんて、逃げ回ってました。先輩後輩の皆さんに多大な迷惑をかけてしまいました。

なんだかんだで、バンドやったり練習してる時間が多かったです。「空き時間に飲む」という作業がものすごく増えましたが、ずっと音楽しかやってませんね。あははは。

大学4年生位からバークリーへ行く前まで、マーティー ブレイシーさんにドラムを習ってました。いわゆるボーヤ仕事もさせて頂いてました。マーティーさんが演奏出来ない時だったか、一緒だったか記憶が定かではありませんが、ひょんな事から、ベースのポールジャクソンさんと演奏させて頂く機会を得ました。音は汚く(失礼!)爆音だったのですが(嫌いではありませんから!)、ものすごいグルーブ感で宇宙まで投げ出されました。

 

Q3 バークリー留学で得た音楽的要素

日芸卒業してから、バークリーに留学しました。音楽的に得た事は今の僕には欠かせない要素です。一番大きく変わったのは、バックビートの捉え方です。実際はバークリー外の活動で得た事です。とあるセッションに参加して気に入ってもらって、現地のブルースバンドに加入しました。週に1〜2回程度ライブの仕事があって、そこで鍛えられました。バックビートにはボケットというのがあります。それまではジャストから前気味にバックビートを叩いていたのですが、レイドバックという概念を学ぶ事が出来たのが、今の僕にとって最大の武器となりました。

バークリーの授業で一番の大きな収穫は、ケンウッド デナード氏の個人レッスンを受けれた事です。彼が演奏した大好きな1曲があって、それを1学期まるまる解説してもらってご教授頂いたのが忘れられません。

もちろんバークリーで得た友人、仲間が大切な財産になったのは言うまでもなく、現在自分のメインのバンド、スピークラウドのギター、二宮純一とはここで知り合いました。今回ゲストでトランペットを吹いてくれた、田中充君もバークリー。そしてギタラートリオの鍵盤、ヤマザキタケルはバークリーの後輩です。


Q4 初の4ビートレコーディングの感想は?

日芸卒業前後ですが、とあるコンサートでヴィブラフォンの浜田均さんと一緒に演奏する機会を頂きました。その時、コテンパンにやられまして。あー、俺には4ビート向いてないな、と。自分が好きな音楽にジャズ的要素が強い事は分かっていたのですが、4ビートが格好良いって思えなくて。小っ恥ずかしくて、もっともらしくチンチキやるのが無理だったんです。当たり前ですよね。真面目に聞いてないんですもん。

バークリー時代、授業やセッションでジャズはやりましたし、帰国後は営業のお仕事を頂いて4ビートはやってましたが、どうもしっくりこなくて。最近ようやく小っ恥ずかしくなくなってきました。こだわりが無くなったんでしょうか。そしたら急に面白くなってきました。今回4ビートを叩いたのは、ギタラーさんのリクエストだったので、抵抗なく出来たのかもしれません。

 

Q5 なぜ、東京から軽井沢へ移住?

2011年の震災が移住のきっかけです。地震だけだったら引っ越してなかったと思います。原発事故・放射能汚染で、当時保育園生だった息子が心配になったのが最大の理由です。3月の震災で6月に移住でしたので、かなり焦って物件を探しました。ようやくパニックが収まった頃、放射能汚染地図が発表されました。ガイガーカウンターを購入して測定したら、世田谷よりも軽井沢の方が線量が高くて愕然としてしまいました。

息子は目に障害があって、いわゆる瓶底眼鏡をしてるのですが、軽井沢に引っ越して視力が上がり始めたので結果オーライかなと思っています。東京にいるよりも空気は良いですし、水も良いです。遠くの山並みも見える田舎ライフなので、子育てには良いかなと。

軽井沢は幼少から毎年夏に来ていた、大好きな土地です。FM軽井沢でスピークラウドの冠番組を持たせて頂いていた時期もあり、縁のある大切な土地です。ずっと暮らしたいと思っていたので、震災に後押ししてもらった感じです。息子をこちらで育てながら、自分は週の半分は世田谷、半分は軽井沢といった半出稼ぎ状態ですが、最近ようやくこの生活も慣れて、軌道に乗って来たようです。

 

Q6 プロデュースワークで感じた事は?

うーん。感じた事か。感じた、というか、やった事は自分のバンドでやってる事とあんまり変わらないかな。ただ、「自分がこうしたい」という欲求よりは、相手がどうしたいかを引き出す事を主眼においてアレンジを進めていきましたね。当たり前ですか?わははは。

ギタラーさんのアイデアの断片を、どう肉付けしていって、その先曲になってオーディエンスに届いたとき、どういった印象を与えるのか、といった道筋を追った上で、今何が必要なのかを引き算的に考えて行きました。同時進行で色んな事を考えるのは難しいですから。

ロードマップを作って、そこをトレースしていくのって難しいなぁ、ってのが感じた事でしょうか。


 Q7 アーティストサポートで大事なのは?

バークリーから帰国してすぐ、SDミュージックに所属しているアーティストさんのサポートのお仕事を頂きまして。その時はとっても天狗になっていた時期で。恥ずかしい限りなんですが。その時、随分自分勝手な行動をとったんですね。音楽家ってこんなもんだ、的な。時間にルーズだったり予習復習していかなかったり。上から目線だったり。大後悔です。それじゃ信用されない訳です。アーティストサポートで一番大事なのは、信用ですかね。遅刻も暴言も、ごくたまにだったら許されるというか。あ、許されませんね。すみません。

他に大事な事って、アーティストさんによって違うと思うんです。相手も人間ですから。ただ規模が大きくなると、そこに集まるスタッフの数も増えて行きますので、やっぱり遅刻はしないように気をつけてます。後は、そうですね、音楽的に仲良くなるってのも可能であれば大事かもしれませんね。 仕事のオファーを頂いてから始めてお会いする事も多いですから、友人になれってのは無理かもしれません。年齢も離れている事も多いですし。

あとは、自分には代わりがいるって事を自覚する事でしょうか。謙虚にしつつも伸び伸び演奏する、みたいな。是が非でも俺が!的な事はそうそう求められる事でもありませんし、そもそも固い演奏になってしまいます。自分が楽しく演奏できるような精神状態を作れれば、自然と長続きする仲間になるかもしれませんし。なかなか難しい事ではありますが。

とか色々言ってみましたが、最近は気を使いすぎないように心がけてます。リラックスして穏やかな精神状態を作って、演奏を楽しむ。これですね。

 

Q8 自分のバンド活動で印象深かったのは?

バイクユアーズというバンドを以前やっていました。2枚のフルアルバムを発売しました。インターFMでパワープレイもらったり、そこで仲間が広がったり。メジャーのお仕事をするきっかけになったバンドです。色々あってバンドを辞める決心が付いた頃に、サンプラザ中野さんとバイクユアーズでシングルを作る事になりまして。中・高校生のころ爆風スランプが大好きで、パールのサマーセミナーでファンキー末吉さんにドラムを習いに行ったり。それくらい爆風が大好きだったのです。それなのに、こんな精神状態で一緒にやらせて頂いて良いのだろうか、かなり悩みました。せっかくお会いしても、嬉しい反面、申し訳ない気持ちで一杯でした。

サンプラザ中野さんと一緒に、アミューズのオフィスで打ち合わせした時・どこかのスタジオでレコーディングした時・J-Waveのライブ中継、どこかのホールで一緒に演奏した時。どの局面でも、あー、ほんと申し訳ないって気持ちと、寂しさが入り交じって、なんとも言えない複雑な心境だった、というのが一番印象深かった出来事ですね。基本いつもハッピーに演奏してますので、こんな事もあるんだなぁって感じでした。

結局バイクユアーズは、自分が辞めると言った事が原因で解散してしまいました。

 

Q9 今回の使用機材

ドラムセットは、グレッチのアッシュモデルを使いました。

普段のメインは、オールマイティーに自分の音が出る、カノウプスのバーチと、ロックっぽい音の太さが気持ち良い、パールのメイプルファイバーです。今回のギタラートリオの音の方向性を考えたとき、太くて丸い、そんなに音量もいらないしって事で選んだのが、グレッチのアッシュでした。サイズは、バスドラム20インチ、タムが10と12インチ、フロアが14インチです。

シンバルは、いつもジルジャン。エンドーズメント契約をさせて頂いてますので。良い音しますよ。わははは。

ハイハットは13インチ。トップがAでボトムがK。ライドはリミックスの16インチ。シズル付き。クラッシュはAカスタムの16と18、ロッククラッシュ16インチシズル付きの上にスプラッシュを重ねて使った、トラッシュっぽい音を狙った組み合わせと、18インチのAカスタムに大きなホールを空けた、これもトラッシュっぽく、尚且つスウィッシュっぽい習いにアレンジしたシンバルも多用しました。

スネアは曲によって色々。友人のクラフトマンが作った、ハンドメイドのチェリー14インチ、カノウプスのメイプル12インチ、ラディックのハンマードの14インチを深さ違いで2台。多めに使ったのは、ラディックの60年代のビンテージです。

 

Q10 音へのポリシー

大学時代の恩師、新井先生にいつも厳しく指導されていたのが音色です。ティンパニーの音色をいかに綺麗に出すか、そんな授業をみっちり受けてました。ですので、綺麗な音をどんな状況でも出す、というのが打楽器を演奏する上での音へのポリシーでしょうか。

音楽を演奏する上での音へのポリシーって考えると、楽しく、瞬間瞬間に反応しながら、生きた音を出す、って感じでしょうか。

うーん、一言でいうならやっぱり、綺麗な音を出す、ですかね。

ドラム的に綺麗な音は、太くて丸いって感じです。シンバルは軽く伸びて行くイメージです。どかんどかん叩いているようで、尖った痛い音がしない、そんな所をいつも気をつけて演奏しています。

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